ある物語。

ある物語。

生まれたばかりの赤ちゃんがだんだんと成長していくにつれて、運動系やら情動系といった平行して働く沢山の仕組みが整備されてきます。そのうち言語系はかなり後のほうになってやってきます。
そこで初めて〈私〉が知られ、〈私〉を独立的な主役であるように錯覚します。〈私〉は言葉をとりまとめる架空の中心として仮構されたものなので、自らを主役とする錯覚は正しいのですが、そのうちうっかり自分こそを固定的な実体として捉えだします。


【問い】それでは、認識する架空の中心が、自らを架空であると認識することはできるのでしょうか。
【答え】できません。(知ったそのときには、コギトはコギトになってしまっている!)


それでも、問題「自らを架空であると看破せよ」には、答えがあります。答えを出したときには、跳躍は済んでしまっているというような答えが。それは、自分で自分を見ないこと。自分で自分を見るときには、コギトが不可避についてくるので、その逆をするということです。でもほんとうにそれをしたとき、自らを架空であると「知る」〈私〉はいません。自殺にも等しい跳躍。


ちなみに自殺の後、死んだままなのかというとそんなわけはなくて、自分で自分を見ること(すなわち人生)が再び始まります。それでも、〈私〉は〈私〉の外に触れて帰ってきたことを、なぜか知っています。そして、時に〈外〉に開くことができたりできなかったりしながら、生きていきます。

(おしまい)