結婚式:こけぐま、両親への手紙

手紙は、前日夜ホテルの部屋で書いていました。夫の手紙は最初伝えるべき事が見えにくかったので、その旨駄目だしすると、結局明け方までかかって書き直していたみたいです。
わたしはそれにつきあっていたら、清書する時間がなくなってしまって、プリントアウトを読みました。
私の母は、泣くのがいやだったみたいで、できるだけ聞かないようにしていたそうです。この話には、いろいろ思うところあったのだけどまたこんど。

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両親への手紙


お父さん、お母さん、これまでの30年間、ほんとうにお世話になりました。振り返ると、ただただ大事にしてもらったことしか思い出せません。

小さい頃は、ほんとうにのびのびと育ててもらいました。
何の心配もなく、不安もなく、好きなことをやってこれたと思います。そして、私がそうできたのは、お父さんとお母さんがけんかをしたときも、その影響を私達子供には及ぼさない、というそのことだけは、二人が一致団結して守っていたからだということに、大きくなってから気がつきました。
私達を最優先に守ってくれて、ほんとうに、ありがとう。

高校生のころは、お父さんとお母さんには、一番心配をかけた時期だろうと思います。周りとうまくなじめずに、人と話すことが怖くてできなくなった私を、あなたがたはじっと見守ってくれました。あまり言葉はかわさなかったけれど、それでも二人が私のことを心配してくれていることは、ちゃんと伝わってきました。
そして、大学に入って、将来が見えずピリピリしていた時期も、Sさんとけんかをして泣いていたときも、そのときそのとき精一杯のやりかたで、私のことを大切にしてくれました。
いつも、ずっと、深いところで守られていたことに、感謝しています。

わたしは高校時代からずっと、自分が生きている意味を知りたい、生きる意義を見つけたいと思っていました。そして目の前にあるものをみては、これは生きる意義ではないと失望し続けて、自分の人生を粗末にしてきました。
そんな私を、お父さんとお母さんは全力で大事にすることで、言葉をこえたものを、伝えつづけてくれていたのだなと、今ならすっきりと分かります。
お父さんとお母さんの子供であれたことに、感謝します。

将来のSさんと私が、それぞれが大変なときにもお互いのことを思いやりあっていられるといいと思います。
それは、お父さんとお母さんが私たちにしてくれたことそのままのことです。
たくさんたくさん、愛してくれてありがとう。

これからもよろしくお願いします。

こけぐま

結婚式:夫の手紙

本日は、私達のために遠路はるばるお越しいただいき、ありがとうございました。本日このように二人で晴れの日を迎えられたことを、感謝いたします。

実は私は、招待した方々に本日来ていただけるのだろうかと不安に思っておりました。といいますのも、振り返ってみますと、私は自分の周囲の方々とちゃんと心をこめて付き合えているのだろうか、思ったからです。

ここ数年私は脳科学の研究に没頭していました。私は研究をとても大切に思っていて、そう思える仕事を職業に持てたことをとても誇りに思っています。

没頭すればするほど研究はよりよくなります。しかし一方で、人と話す時間と余裕はどんどんなくなってしまいます。私はよい仕事を追求するあまり、人と話すことが怖いと感じる時期すらあったほどです。

ですから、本日いらして下さった方々を見渡しても、あの時失礼なことをしたなと、思い出される失敗を沢山反省しなくてはなりません。この場を借りて、失礼をお詫びさせていただきます。
本日これほど沢山の方々がお集まりくださいましたことをとても有難く思います。来賓の方々のご祝辞を拝聴し、私のいたらない部分に格別のご理解をいただいていることを知り、涙をこらえるのがたいへんでした。信頼できる方々に囲まれていることをとても幸せに思います。

今も誠実な人付き合いと質の高い研究の両立は本当に難しいと感じます。私は不器用な性格のため、研究の質を疎かにすることはとてもできそうにありません。ですが、より一層、心の込もったお付き合いをさせて頂きたいと存じます。

また本日の披露宴は新婦の希望により、手作り感あふれる会となりました。とても沢山の友人が想像以上に私達のために頑張ってくれたことに、とてもビックリしました。そしてそのことに新婦が泣いて喜んでいるのをみて、私も本当に嬉しく思いました。

また最後に、我侭ばかりの私達に文句を言うどころか、いつも喜んで協力してくれる両親には本当に感謝しています。いつもありがとう。二人が幸せに長生きしてほしいといつも思っています。

皆様、本日は本当にありがとうございました。


山椒魚

こけぐま出版/苔熊出版

こんにちは、こけぐまです。


こけぐまは実は一人出版社をやっています。そこのホームページをつくったのですが、どうも離れ小島になっているホームページは、検索では無視されてしまうみたいです。このブログはGoogleの検索ロボット君も泳いでいるみたいなので、まずはこちらにリンクを貼ります。


こけぐま出版/苔熊出版
http://sky.geocities.jp/kokeguma_p/home.html


追伸:信濃毎日新聞の書評で、苔熊出版からでた本をとりあげてもらうことになりました(某先生の蛮勇に感謝!)。また掲載されたら宣伝しまーす。

蒼天航路の話がほとんど出てきませんが、一応続き。しばらく横道の話が続きます。(こけぐま)


S:「見苦しくあがく劉備」は、皆がもっている天才のイメージと違うよね。「天才は正しいやり方が既に分かっているから、軽々と成功するんだ」と思われがちなんだけど、実際にはそんなことは全くない。天才にもやっぱり正しい道はわからないから、あがかないといけない。
 だけど普通の人は、正しい道がわかれば天才の道が歩めるんだって思っている。それで、正しい道を分かってから進みたいって思うんだ。
K:完成型を先に見て、前後関係が見えなくなっているのね。
S:既に成り上がった天才を見て「なんであの人にはわかるのに俺にはわからへんのやろ」って思っちゃうんだよね。一方で、同級生とかに失敗ばかりしてるやつがいると、馬鹿な奴って思っちゃう。
K:でもその人は、実は失敗を繰り返して繰り返して・・・
S:あがいているんやよね。そういう人のほうが、天才が天才になる過程を分かっていることがある。普通の人は、そのあがきに思い至らないから、その間の天才の努力をすっとばして見ちゃう。
K:天才は才能だけで努力なしで自然にそうできるかのように見えちゃうというのは、錯覚なのね。その人の努力をまったく無視しているのよね。
S:普通の人は、天才が成功するまでに一杯失敗してきているとき、失敗していた過去は悪かったというふうにして、その人の今の天才とは切り離して考えちゃう。そういう見方は、悪いとは言わないけど、見えてないなあって思うね。
K:なるほど。だけど、それ見えてない人は結構多いんじゃないかな。私、そんなに頭が悪い方ではないと思うけど、でもあなたの話を詳しく聞かないとやっぱり理解できなかったかも。
 私は、天才だって感じる人について、その人は才能があるから、今の私と同じ程度の努力でこれだけ凄いことが出来るんだって、思っていた節がある。本当は、その人は、私が捨てられなかったこと(例えば、快適で楽しい感じとか)を捨てて、あがいて、そこにたどり着いているのだよね。才能がなければどうしようもないけど、才能だけでこんなすごいものができるはずがない。よくよく考えれば当たり前のことだけど、言葉で説明されるまで、天才の努力とかあがきについては想像できなかったなーと思うよ。
S:だから「普通の人」と「天才」は決定的に分かりあえないんだよね。ちょっと昔の話やけど、卓球の福原愛選手が「天才」と言われるのが嫌だって言ってるのを聞いたことがある。「才能があるからできる」っていうのは、その結果に対する自分の努力を何も認めてもらえてない感じがするって言っていた。その気持ちはよく分かる。
K:確かに、遊びたいのを我慢して練習したり、いつも常に卓球のことを一番に考えたり、そんな努力の果ての成果なのに、「才能があるから」の一言で済まされると、存在を無視されてる気分にもなるかもしれないわね。才能レッテルを貼られて、それ以外の自分は見えなくされてしまうような。
S:うん、そうなんだ。あと、個人的に一番辛いなーって感じるのは、何かに自分を注ぎ込んでいると人間関係をうまくできなくなっていくこと。人間関係って、いろいろなルールや気を遣うべきポイントがあって、それをお互いに自然にやった上で楽しく一緒にいられるものだと思うんだけど、何かに集中すると、そのルールとか気遣いポイントとかが分からなくなってしまうんだよね。そうなると、人としゃべってもぎこちなくなってしまって、楽しくないし、お互いに分かり合えない。ベトナム帰還兵が母国に帰って戦場経験のない人の中で孤独を感じるのとか、阪神淡路大震災を経験した人があの経験はそこにいなかった人には決定的に理解してもらえないって思う感じとか、そういうくらいの違和感がある。
K:『指輪物語』のフロドも同じだったかもしれないわね。冥王サウロンの作った「力の指輪」(持つ人に力を与えるが、一方でその力で持つ人を縛り、手にした人は指輪の意志に従う呪いの指輪。フロドは非常に欲のない人だったので、指輪を持ってもかろうじて指輪に囚われない人だった。そのため、指輪を預かって捨てに行くという役目を負うことになった)を火山に捨てに行く旅が終わったあと、生まれ故郷に帰って幸せに暮らしました、とはならなかったよね。
 自分の経験を物語として残し、旅を共にした友人の結婚を見届けた後、どっか遠い幸せの国(私が思うに天国で、ほぼ死ぬのと同義)へ旅立つよね。あれは、リアルだなーって思って、あの映画の中で一番印象に残っている。フロドは、「力の指輪」を長い間持ちつづける旅を経て、もう、普通の人の中で普通に楽しく生きていくことはできなくなったんだと思う。
S:ああ、言われてみればそうだね。天才って人間的な幸福度で換算すると、ものすごく割の悪い生き方なのだよね。はっきり言って負け組。アインシュタインとかニュートンとか、超弩級の天才ですごい仕事を残している人たちの私生活は普通の幸福にはほど遠いよね。一時的な快楽とかはあったと思うけど、長期的な幸福は全く手にしていないんじゃないかな。才能と仕事にその人生を喰われた(よく言えば捧げた)って感じ。
K:そうね。だけど、例えば200年前の絵とかでさ、確かに古いなーってのと、全然古くないっていうのとあるよね。時を超えるものと、超えないものとがある。
S:うん。
K:才能があっても自分の人生を捧げずに出来たものは、やっぱり時は超えられないんじゃないかな。
S:その差が分かる時には、もう自分はいないんだけどな。
K:だけど、時を超えるものを生むことは、外の評価とか関係なしに自足する満足感があると思う。
S:それは確かにそうだね。自分を限界まで表現しきるというのは確かに満足があるよね。
K:そう。そしてそれが「自分を捨てる」ってことと繋がってる。「自分を表現しきる=自分を捨てる」ってのは矛盾してるみたいだけど、確かにそうなんだと思う。

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S:ところで、話は変わるけど、『医龍』という漫画で主人公の朝田が助手に指名する研修医の伊集院は、見栄えがしないかもしれないけれど、天才の一例としてよく描けてるなあって思う。
K:既に成り上がった天才というのが朝田で、あがいている天才が研修医君?
S:そう。研修医君は結構うじうじしているので、嫌いやという人は多いと思うし、あのうじうじがなくても天才の道は進めると思うけど、うじうじ性質は彼の持ち味。
K:と言うと?
S:彼は内省的やからうじうじしちゃうんやけど、それがいいんやと思う。
K:反芻できるから?
S:いや。天才的な人は、自分の内の声を聞いてそれに自分を任せないといけないんだよ。外に答えは用意されていないから、自分の内の「こうしたらいいんじゃないか」という声に身を委ねられないといけないんだよ。だれもアドバイスしてくれる人はいないし、外から助けてくれる手がかりもないから、自分の心の中の声だけが頼りなんだ。
 研修医君が「医局の人間関係や、わずらわしい雑務なんて全部忘れて、技術を磨くことだけ考えていられたらいいのにな――」と一人で思う場面があるのだけど、彼の内省的な面の良さが出ているシーンだと思う。
K:あ、あのシーンはきれいやったね。心が何かに集中していく感じが出ていた。
S:見かけは豪快な人であってもいいんだけど、天才であるかぎり、内省的な側面が必ず必要なんだよね。内省的な側面なしに全てが豪快であったら、それは天才にはなりえない。
 例えば、プロ野球選手の清原も豪快にみえるけれど、それはあの人のポーズなんだよね。自分を豪快に見せる演技をがんばってしているんだ。野球の練習をしている姿を絶対に人に見せないとか。それは彼のプロとしてのプライドだよね。プロ野球選手というのは「かっこよくなければいけない」というのが彼の考え方で、がんばって練習してホームランを打ったところでかっこよくないって思うから、そういう姿は見せない。
K:清原は皆の持っている天才イメージに自分を合わせたのね。その意味で、蒼天航路曹操と同じやね。
S:だから清原は「豪快」なのであって、実際の彼は練習熱心な努力家だ、という記事を読んだことがある。清原自身がすごい天才かっていうと、まあそれは置いといてだけどさ・・・・・・彼の豪快さは彼自身が作っている。




こけぐまの追記:
自分の内なる声を聞いて身を任せ、失敗してもくりかえし試す(あがく)、というのが基本技みたいです。
似たことが坐禅でも言えるなと思ったので、追記します。
私はすでに書きましたが、「自分を捨てるため」に坐禅をしているみたいです。しかし、自分が自分を捨てようとするって、ものすごい変なことです。自分が自分を捨てるなんて、自分自身にとっては意味不明(敢えて言うなら「世界=自分」の外の言葉)なわけで、いったい何をどうすれば自分で自分を捨てられるかなんて、正直にそのことに向き合えば全く分からないはずなんです。
最初は、先達の言葉とかをヒントに「こうしたらうまくいくかな?」とか「こういうことが悟ったことの内容なら、それを目指そう」とかいろいろ試してみる。これは普通の学問の始め方と同じだし、習うことが「自分を捨てる」以外のことならそれでいいと思います。だけど、「自分を捨てる」についてはそうはいかない。自分に何かを付け足してレベルアップするのとは真逆を行くことだから(というか、レベルアップするその「自分」をこそ捨てたい)。
「いったい何をどうすれば自分で自分を捨てられるかなんて、正直にそのことに向き合えば全く分からない」ってのに気づくと、お手本を見てそれらしくっていうやり方ではダメだって気づく。
そうすると、でたらめめちゃくちゃなりゆきまかせ出たとこ勝負で坐るしかなくなる。この坐は、自分の声に身を任せてあがくってのと同じことをしている感じがします。単にまねぶことの先へ行くには、何であれこの道を通るのかもしれないなと思いました。

えー、記事がすすまず(Sのせいです)、ひとりごとばかりが増えていっています。
とある出来事があって、やはり自分のことってなかなか捨てられないんだなとしみじみ思う。
どっか自分を守ったり、正当化したりしちゃうんです、つい。そういう重いのを捨てるのがいちばんいいってわかってても、やっぱりどっか守ってしまうんです。自分を捨てるそのために他人がいるんだと思ったりします。
BUMP OF CHICKENの「ひとりごと」という歌があるのですが、これは「自分を捨てる」ことを書いてる詩だなーって思います。
優しさって一体なんだ?ってことから始まる歌詞です。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02633

久しぶりの友人に会いました。実はこの友人、どこか私と似ているところがあって(人とうまくやっていく時の戦略が似ているので、どっかキャラがかぶるんですね)そこが苦手だと思ってたのですが、時がたってお互い違うところへ進んだのか、これまでとは少し別の感想を持ちました。
彼女は、悲しみが人生の基調になっています。すごく深い悲しみを味わったことがあって、そのことが彼女を縛っているような。その悲しみがあるせいで、逆に楽しい時にものすごく楽しいと感じるような。そしてどこか刹那的に楽しいことを求めてしまうような。彼女は楽しくあることを悲しさの埋め合わせに求めているようです。
その話を聞いて、あ、違う人だと思いました。
私には人生の基調となる感情がないみたいです。何が基調になっているかと考えてみたら、態度でした。いろいろの出来事が起こっていく中で対応の仕方を学習していくその態度が一貫しています。つまり、私の基調は色(内容)ではなく構造(内容の処理の仕方)。これが意志人間ってことですね。ようやく分かりました。
何かうまくまとまりませんが、わかった感覚をメモ。
虎くんがした色と構造の話が役立っています、ありがとう。

S:劉備曹操とは別の方向を目指そうという踏ん切りを、孔明のところを訪ねた時に既にしているよね。

劉備曹操にくらべりゃ、おいらは確かに甘っちょろいかもしんねえ
天は淫らで卑しい性悪女なのかもしんねえ。
だがな。たとえ、そうであろうとおいらの想いは変わんねえぜ。
この甘え恋心を貫き通していくのが、俺等の覇業だよ。」
蒼天航路』17巻

S:もともと劉備は、自分を捨てることがかなりできてた人で、だからこそ人がついてきた。だけど、劉備曹操みたいに、目指す天下に対して自分の全てを没頭させるとこまでは行ききれてなかった。自分を捨て切れてなかった。
K:自分を捨てる、ってどういうこと?
S:自分を賭けたいと思う対象(何でもいいんだけど、この場合は天下)に没頭すること。集中してそれ以外の全てを忘れること。没頭してはじめて、それは自分の表現になる。もしそこに、天下以外の何かが残っていたら、「天下を目指す」という自分の表現にとっての制約になってしまう。だから没頭すべき時に、例えば「自分が大事」という気持ちが残っていたりしたら、全然ダメなんだ。
K:自分の表現の制約となるものをとっぱらう必要があったのね。例えば自意識とか?
S:うんうん。
K:ふーん。孔明が自分の分身を派遣して、劉備の自意識を逆なでするような挑発をしたのは、そういうわけだったのねー。

孔明の分身「江陵をあきらめて次は孫権の所に行くんだって」
孔明の分身「馬っ鹿みたい」
孔明の分身「公孫サンの下から始まって呂布に降ってその次は曹操、エン紹・劉表ときて今度は孫権?」
孔明の分身「まるで節操なく天下をはいずり回る寄生虫ね」
劉備(お、おいらが天下をはいずりまわる・・・き、寄生虫!?)
孔明の分身「みてみてあの顔! 図星をさされてぐうの音も出ないって顔よ」
孔明の分身「そうかな、あんまりよくわかってないんじゃない? あれだけ図々しい勘違いをしながらのうのうと生きてるんだもの」
孔明の分身「自分の器をすごおくたよりに生きてるようだけど」
孔明の分身「天下の何もかもを入れてしまえる大器だなんて言ってるけど」
孔明の分身「わらっちゃうわね」
蒼天航路』19巻

K:自分が寄生虫だと指摘されて、劉備は憤慨するってのは、そこで自意識を掘り起こされたってことよね。寄生虫と言われてショックを受けるということは、つまり、「そういう風に思われたくない自分がある」ということで。もしそうなら、劉備は人から寄生虫だと思われるようなことをできなくなる。孔明が求めたのは、その制限を作っている邪魔な自意識をとっぱらえってことね。そうすれば、人生の中で自分がやりうるバリエーションが増える。
S:そして更に言うと、孔明は、劉備に天下を目指す覚悟を決めさせたかったんだと思うよ。自分の目指すもの(天下)が圧倒的に大切だと思えないと、それが持つネガティブな側面を正面から受け容れられない。どれだけ悪い側面があっても自分の目指すもののために受け容れるだけの覚悟を劉備にさせたかったんだ。そのために、孔明は、天下にとって劉備が害悪という見方も出来る事実をつきつける。

孔明の分身「地べたに天下はころがっておらんぞ足りない頭で考えるにはもう時間がないのだ。早く自分がただの馬の骨だと認めてしまえ」
劉備「う・・・馬の骨・・・」
孔明の分身「なんだその顔は。まさかあの民草を根拠に、自分が何者かだと勘違いしておるのではあるまいな。よいか劉備! 確かに劉備玄徳の名は広く知れ渡ってはいる。しかしな、尾ひれがついて膨れ上がったおまえの風評を、さらに講談師やくぐつ師がおもしろおかしくでっち上げた名ではないか! しかも民草がおまえの虚名に寄せる想いなぞ、所詮は曹操に対する恐れの裏返しでしかない。曹操の覇業のあまりの速さゆえ、政の中身を考える前に怖さが先に立ってしまうのだ。本当のおまえは戦が弱く、智恵もなく、ただ逃げ回っているだけの小鼠だ。
「天下の大徳」などと煽て上げられその気になるんじゃない! 脳天気と大器をはき違えるな! そもそもおまえは天下をどうしたいんだ? おまえは政というものを考えたことがあるのか!?」
劉備「おいらはな、おいらはただ民の笑顔が見てえんだ! ただそれだけで天下を目指しちゃ悪ィってえのかよーーーッ」
孔明の分身「ちがうだろ。おまえはただみんなから好かれたいと思っているだけの洟たらしのうつけ者だ。おまえはな、民の笑顔ではなく、自分に笑顔を向けてくれる民を欲しがっているだけだ。」
(絶望の表情の劉備
孔明の分身「天下にとって最良の道は、あんたがここでおっ死んでくれることなんじゃが。」
蒼天航路』19巻

K:お前が生きていると皆の迷惑なんだよ!って・・・・・・。
S:この言葉を乗り越えろといった孔明は、えぐいよな。おそらく劉備は善意で良いことをしてきた。だけど別の面から見れば、劉備が生きながらえるだけで人が死ぬ、というのも事実だ。孔明劉備に、劉備が天下を目指すことの悪い側面を突きつける。それは、劉備に「良い・悪い」を超えたところまで自分を持っていって欲しかったんじゃないかな。
K:「良い・悪い」を超えるって?
S:天下に没頭して、善悪にとらわれなくなること。「自分を捨てること」と言い換えてもいい。
K:「自分を捨てる」というのは、ある意味でとても難しいよね。人からよく思われたいとか、自分の存在価値を感じたいとか、自分がかわいいとか、そういう誰もが持つ自然な感覚をぶっとばして、ある意味で「人でなし」になることだから。
S:自分を捨てるために劉備はあがくんだけど、あがきの最高潮は、長坂の敗走と子捨てだと思う。
K:前にみた蒼天考でも乱心とかなんとか書かれて、かなり評判の悪いシーンだよね。

(長坂で敗走中の劉備は妻子と御車の中にいる。子供は不安そうに窓から外をのぞく)
劉備の妻「およしなさい!お父上とともにいるのです。何も恐れることはありません。」
劉備の子「あれ・・・・・・遅いよ。母上、この車だけがどんどん遅れていっております。」
(荷を担ぎ上げる劉備
劉備の子「ち、父上。」
(荷を御車から投げ捨てる劉備
劉備の子「ああっ速くなった!少し速くなりましたーーーッ」
(荷を投げ捨てながら、自分の子供も投げ捨てる劉備
〈子供だーーーッ劉備殿の子が落ちたあーーーッ〉
徐庶「な、なんということを・・・」
〈敵だ、敵の別働隊がすぐ左手に迫っておるぞーーーッ〉
徐庶「げ、玄徳様・・・」
(がしっと二人の子をつかみあげる劉備
劉備の妻子「いやああああ」
徐庶:一輌だけ遅れていた劉備殿の御車から次々と荷が投げ出され、そして子供が落ちた。まさか・・・いや!あの人は今心神を失っている!
劉備「まだだ。まだまだだ。まだまだこれからだ」
劉備の妻〈人!?これが人!?〉
劉備の妻〈いいえこれが人!人!人!!人!!!天下人!!!〉
(子をさらに投げ捨てる劉備、それをはばむ徐庶
劉備の子「うわああああ!」
劉備の子「ひいいいい!」
徐庶「車を軽くするため、子を荷と同じように捨てる、あんたは正しい。まったく正しい! しかし、なんだその顔は。劉備! 貴様には微塵の後ろ暗さもないのかーーーッ」
(御車からでて、車をひく馬を奪い、車を切り離して馬に乗って逃走する劉備
蒼天航路』20巻

S:劉備はね、試しに子捨てをしてみたんだと思うよ。
K:は?
S:試し。
K:自分を捨てるために、思いつく限りのものを捨ててみたってこと?
S:自分がかわいいという気持ちが、自分の子供を捨ててみたら何か変わるかもと思ったんじゃないかな。劉備は一人捨ててみてピンとこないって顔しているけど、この表情とか非常によく書けているよね。
K:ふーん、なるほど面白い解釈だね。
S:この子捨てはいいシーンだと思うよ。これは、劉備が自分を捨てるためにしたあがきの一つ。結果としては失敗やったかもしれない。あそこまで思い詰めて子捨てまでしたのに、彼はどうにもピンと来ないという表情をしていた。だけど自分を覚醒させるためにそこまでやったというあがきが、とてもリアルに描けていると思う。




こけぐま追記
蒼天航路』で子捨てが描かれる2章は、「生きろ」および「子の命、父の命」と題されています。徐庶の表現によれば、中華の伝統的倫理では「子は枝葉、子は親を生むことはできぬ。親のために命を投げ出してこそ孝」とあります。徐庶は自分の心に照らして、その伝統的倫理観に異議を唱えます。対して、劉備はこの倫理観を「微塵の後ろ暗さ」もなく実践します。
作者は20巻の後書きでこのように書いています。

人の行いの善悪を決めているのはその時代の社会だ。太古より中華民族は動物的な情欲や本能を克己心で抑え、人の感情を鍛え上げることを美学としてきた。しかし、たとえ死地においてであれ、子を捨てたり、妻妾の肉を部下に給することが悪とはならない社会規範とはいったい何だ!? 現代の倫理感覚ではおよそ捉えがたい。劉備を描きながら、快と不快が入り交じり胸が痛くなった。

作者は、劉備の「子捨て」を天下人として最善の行動を取ったものとして描いたと思います。(「天下人は生きる!天下を掴みとるまではいかなる死地をも越えて生き続ける!それが天下人だ!」の体現です)。天下人である劉備の価値を描いた上で、現代的価値観を反映する徐庶をぶつけています。作者の視点は、このぶつかりあいにある感じもします。
おそらく、作者は子捨てが「自分を捨てよう」とあがく過程の「試し」だったとは考えていないでしょう。子供を捨てた直後の劉備の台詞「まだだ。まだまだだ。まだまだこれからだ」が、すでに天下人の言葉であることからも、「子捨て=天下人として最善の行動」解釈のほうが自然ではあると思います。

その意味で、大山椒魚の解釈は作者の意図とは違うものです。ですが、こけぐまはこの「子捨て=試し」説、なかなかリアルで面白いと思いました。どっかほんとうがあります。
私は坐禅をするのですが、それで何をしようとしているかというと、自分を捨てようとしているんだと理解しています。しかし、自分が自分を捨てるには一体何をどうすればいいかなんて自分にわかるはずがないから(だってどこまで行っても自分は自分)、とにかくでたらめめちゃくちゃやるんですけど、そこで子捨てを「試し」にしてみるっていうのは、なにか想像できることだなと思いました。自分が大事と思うものを捨てれば何か変わるかもしれないって、自分を捨てようと思い詰めた人ならありえる発想です。




こけぐま追記2
この敗走を経て、劉備はどうなったのか、この後に続く話の関係上、つい書きそびれてしまいました。ここに追記します。
敗走とあがきをへて、劉備はついに自分の目指す天下に自分を没頭させます。その後、自分や重臣の妻子たちの命は絶望的だと聞いても、劉備は平然としています。孔明はそれを見て、「きれいなお顔だ、さざ波ひとつない。煩悶はとうに乗り越えたということか」と評しています。

劉備「天下を想うおいらの心は甘え、そう言ってたよな孔明
孔明「はい」
劉備「そいつぁ変わりようがねえ」
孔明「生まれもった本性をそのままに、すなわち徳(の旁)。まっすぐに生きてゆくすなわち徳(の偏)、世に言う徳」
劉備「そうだ。これから先はおいらがただ生き存えるだけで、乱世は深まり人が死ぬ。そのことを受け容れるのにもう躊躇はねえ、それもおいらの徳だ」
蒼天航路』21巻

山椒魚のコメント「『自分が生きることは皆の迷惑』ってことすら自分の徳だと受け容れた劉備はすごい!!」だそうです。